Story Vol.01
100年前に廃業した造り酒屋「若松屋」を復活させ、東京・芝の地に酒蔵をつくりあげた斎藤俊一氏。杜氏との出会い、酒蔵免許の取得、そしてこれからの東京港醸造について、お話を伺いました。
(取材・文:こやま淳子)
幕末藩士も集った造り酒屋を復活
――まずは、この東京港醸造を2011年7月に復活されたきっかけを教えてください。
齊藤俊一氏(以下敬称略):「どうやって代をつなげていこうか」というのがベースにありましたね。もともと「若松屋」という酒蔵をこの地でやっていた家系で、幕末には薩摩藩の御用商人だったので、西郷隆盛や勝海舟の密談の場だったこともあります。自分で7代目なんですけれども、1909年に一度廃業して、私は祖母に話を聞いて知っていた感じでした。その後もこの芝に住んでいたのですが、バブル前に土地を買い足して、雑貨店とビルの運営を始め、この周辺に6店舗ほど展開していきました。雑貨屋が「かわいい」と言われる世代に浸透して、つい去年まで、38年間ずっと雑貨店としてやってきました。2011年当時も、売り上げは結構ありましたね。その経営のやり方が評価されて、都知事賞に選ばれたりもしました。
――ビジネス的に成功されていたんですね。都知事賞は、いつ頃の話ですか?
齊藤:平成8年です。そこから商店街の活動をするようにもなっていました。
――そこから何故お酒づくりを始めようと思われたんですか?
齊藤:きっかけは、もう25年ぐらい前の話なんです。その当時は、インターネットが普及しはじめて、「これからはネット上での物売りしかなくなってくるよ」と言われていた。それから、当時、地方の商店街を見に行ったときに、駅前がシャッター通りになっている現状を見ましてね、まだ港区は、そこまでではなく、商店街には商店街の生き方があるとは思っていたのですが、危機感はありました。「どうやって代をつなぐか」という、自分の人生をかけてのテーマがそこで生まれたのです。
――雑貨店だけではつなげていけないと思われたということでしょうか?
齊藤:ひとつは、物売りという寂しさをすごく感じていたんですよ。店が流行ったからといって、お金だけ儲ければ何でもいいのだろうか?という。50過ぎたときに、銀行の借金がまだ億単位で残っていましたし、銀行から「誰が返すんですか?」と言われたりして。それから代をつなげるっていうことを意識し始めた。
もうひとつは、地方のシャッター通りを見てるなかで、流行ってるところが酒蔵だけだった。それで、うちも100年前まで酒蔵だったんだよなっていうことを思い出したんです。でも酒蔵というのは広い敷地と、水と、お米と、いろんな条件が必要で、地方でしかできないものだと思ってましたから。絶対無理だと思いながら、酒に関することをしていきたいと感じていたんです。
杜氏との奇跡的な出会い
齊藤:そんなとき、お台場のアクアシティというショッピングモールに大手酒蔵メーカーの醸造所があって、そこにいま杜氏をやっている寺澤がいたんですね。なかなか採算が合わず、いよいよ閉めるという段階で、寺澤に出会うことになりました。
――すごいタイミングですね。
早速、電話して会いに行ったら寺澤が出てきて、「いや、やるのはいいけど、絶対儲かりませんよ」と言われて。だいたいそう言うと、みなさん帰っていくらしいのですが、自分だけが「儲かるためにやるわけでもない。代をつなげるためにやりたい」と話をしたわけですよ。「それならまだやりがいがあるね」という話になって、寺澤自身も、あと1年後にはそこを閉めなくちゃいけないというのもあり、自分の身の振り方もどうしようかと思っていたらしいんですよ。その酒蔵で様々な実験をして、いろいろ特許もとったし、これをつなげていきたいと思っていたところだった。それで私の話に可能性を感じて、手を組んでくれたんです。交渉に1年間かかりましたけどね。
たまたまお台場と芝は近くて、レインボーブリッジを越えてくるだけでいいじゃないかというのがあったし、素人がやるには難しいから、大手と一緒にやろうかとか、いろんな構想はあったんだけども、でも結局、寺澤は小さく作ることにしたのです。特許を持ってるんだし、その可能性は十分あるんだと。
――奇跡的な出会いですね。そこから始まったんですね。
齊藤:ただ問題があって、うちには酒造免許がなかったんですよ。そして酒造免許を取るというのが、難関でした。基本的には酒造免許の新規免許、特に日本酒という免許を取ること自体が、とても難しいのです。
戦後、新規免許を取得した酒蔵はひとつもないんです。酒税法という法律で、自由化していないので、非常にハードルの高い免許になってしまっている。その結果日本酒はどんどん衰退してしまっている。自由化させるべきなのか、それを守るべきなのか、保護するべきなのか保護政策すべきなのかっていうのは、今後の大きなテーマのひとつです。
――なるほど。お酒作りを始めるって大変なんですね。2017年というと、意外と最近ですね。
齊藤:8年前の話です。2011年に『江戸開城』というどぶろくを作って、2016年に清酒をつくりました。
――清酒『江戸開城』はまだ8年なんですね。その割に、ミシュラン星付きのお店に置いてあったり、都内屈指のラグジュアリーホテルに採用されていたり、広がっていますよね。
齊藤:はい。やっぱり東京23区の酒ということで、話題性があるというか。2016年に清酒免許が取れたときには、酒蔵が北区にもう一軒あったんですよ。でも、結果的にそこはうちが取ったあと、閉鎖してしまったんですね。「お前が潰した」みたいなことも言われたのですが、そもそも都心で従来の酒造りをやり続けることは、それだけ難しいということなんです。うちの場合は、自分たちの住居を狭小酒蔵としてリニューアルすることができた。このことも話題性がありました。
――それで23区唯一の酒蔵になったというわけですね。
東京の水道水を使った
マイクロブリュワリーという造り方
――2011年からこれまでやってこられたなかで、大変だったことはありますか?
齊藤:「どうブランディングするかですかね。基本的には、お酒の味が美味くないと売れないんですよ。それは寺澤の役割ですが、とはいえ、美味いだけでも売れないんです。ブランディングが作れていないと。そういう意味では試行錯誤してきましたね。
『江戸開城』の水は、東京の水道水を使っていまして、いまではそれもブランドストーリーの一部になっているのですが、最初は言ってなかったんです。東京の水道水は、いまはもう高度浄水処理の技術がすごくて、水質も伏見の酒に近い。いい水だという根拠は持っていたんだけど、イメージが悪かったから。我々の年代以上の人たちは、もう「カルキ臭い」だ、「塩素がなんだかんだ」、「そんな水道水で作ってる酒じゃねえだろうな」って。説明をしても全然聞き入れてくれないお客さんが多かったので、最初の2年間くらいは、水についてははっきり打ち出していなかったんです。
でも、あるときNHKの番組に取材していただいて、やっぱり隠しきれないし、ちゃんと公表して、しっかり根拠や歴史も取り上げてくれるならば、水道水で作っていますということを言おうと決めて。そこからもう完全に公にしたんですけれど。
――確かにそれは勇気がいりそうですね。
齊藤:すごく熱を入れて喋りました。実際地方の酒蔵も「水が一番命だ」みたいなこと言われてるけども、実はみなさん、半分以上が水道水です。
――そうなんですね! 確かに、元都知事の石原さんもプロモーションして、「東京の水」というペットボトルも売り出されたりして、東京の水道水はきれいだっていうことを宣伝されたりしていましたよね。
齊藤:寺澤は、ちょうど伏見にいましたから。東京の水道水は、水の硬さとかいろんなことも含めて伏見の水によく似ていると。東京の水も柔らかいんです。ただ、冬と夏とはちょっと硬さが違ってくるんで、それを硬度という数値化することができるんですけども。中硬水という柔らかい水で、「女酒」と呼ばれています。灘の酒は「男酒」と言って、六甲山から直接すぐに落ちてくる水は固いんですね。柔らかい水を使うと酒が甘いほうにぶれるし、硬い水を使うと辛いほうにぶれるんです。
また、すぐに塩素がなんだかんだって言うけど、塩素を入れないと、飲み水には使えないんですよ。どのくらいの量の塩素を入れるかというのが大切なんですけども、有機物というか、大量なお米の中に、ほんの何ppmっていう塩素が入っていても、実際には全部もう蒸発してしまう。いまのちゃんと浄水処理した水道水は全然塩素臭くないですよ。昔、プールで泳いだときの塩素のような味はしないですからね。
――イメージが先行しているんですね。
齊藤:そういうハードルもありました。あとは、「本当に作ってんのかよ」という言う意見も相当あった。免許を取ること自体が難しいことなので、裏から議員に手をまわして、いくら金積んだんだとか、いろんな噂も流れてました。でも、そんな不正をして免許を取ろうとしても、まず担当官が嫌がって、下さないです。
まあ、いろいろとありましたが、免許取得のためすべての条件が揃ったといえばいいのか。いま思うと、とにかく運が良かったんだと。本当に諦めないで良かったと思っています。
明治時代は1万2000件あって、戦後、全国に4500件酒蔵があったんだけど、いま1200件しかないんですよ。みんな辞めちゃったんです。でも、可能性があるのは、小さく作るやり方。コストがかからないから採算が合うという状態になってきてる。結果的に、うちがモデルケースになっているんです。
――それがマイクロブリュワリーというやり方だったんですね。
うまくいった理由は、
大企業の資本じゃなかったから
齊藤:ただ、採算は合っても、まだ儲かるまでにいってませんが。だから、必死になって高く売れるように、ラウンジを作ったり、いろんなことをやっているんですけど。先行投資をしている段階ですね。どうやってブランディングしていくか。
――地方の日本酒は、安すぎますからね。そもそも日本酒はワインに比べてすごく安い。
齊藤:そうなんです。もともと手間がかかって、約2カ月もかかるのに、ワインとかビール作るほうがまだ儲かります。この次はワイン作ろうって、半分冗談のようなこと言っているんだけどね。
――「東京のワイン」いいですね! でも、いま外国人の方が増えたので、また蔵元、東京のお酒の価値も上がってるんじゃないですか?
齊藤:確かに上がっていますが、それ以上に人口が減っていくというか、日本酒を飲む人間が減っていくスピードが速い。どんどん時代が変わっていって、もう完全に人口が減ってますから。いまの若い世代が日本酒飲むところまで行きつくには、まだ時間がかかる。そのときには、もっと人口が減っています。
そういう危機感のなかで、やっぱり何かをやり続けることが大事で、ラウンジもそのひとつです。
――そんな厳しいお酒業界で、採算が合うまで来れた、その勝因は何だったと思いますか?
齊藤:勝因は、まずは寺澤と手を組んだことなんですけれど、もうひとつは、2人とも働くことが嫌いじゃなかったということ。サラリーマンじゃなかったことなんですよ。いま、小さい酒蔵も、実は大企業にM&Aで買われているケースが多いんです。決算書を見れば、酒蔵1200件あるなかの半分は、もう外資系だけじゃなく、日本の大手が株式を取得してますね。イメージ悪くなっちゃうから、そのままの酒蔵の名前でやっているところが多いですが。
――実は会社員として働いている酒蔵さんが多いということですね。
齊藤:うちは同族企業だから、大手企業と違って自分たちの意思でやっていける。小回りが効くと言う利点がある。M&Aの会社から束になって手紙は来てますが。
――でも同族経営だと、それこそ代をつなげていくことが大変ですよね。
齊藤:先祖が受け継いだものを潰してはいけないという使命感はありますね。次の代は娘の楓に受け継ぎますが、彼女も同様です。今度は娘が8代目として、いまもすでにオリジナルな形で表現してくれています。若松家の家訓に「商いは飽きない」「お店は見せるもの」という言葉があるのですが、要はマメに体を動かせということで、一生懸命働くことを良しとしてきましたので。
――では、ラウンジだけではなくて、酒蔵全体を楓さんに託していこうと?
齊藤:そうですね。ラウンジはまさに娘が計画を実行し、江戸開城の認知度をさらに表現するための手段として創りました。
「天空の隠れ家」という要素の中に、大人対応のシンプルでクラシカルなスタイルということで、娘のブランディング力が発揮されました。広い空間にゆったりとした時の流れのなかと、お酒と共に楽しめるという意味では、とても良い仕上がりとなりました。幸いこの1月にオープンさせてから、お客様の評判も上場で、数字的には徐々に上昇しつつあって、まずまずの成果を出していると思います。
会社全体としては、トータルの経営を目指せなくてはいけません。ラウンジの運営が落ち着いてきたところで、ショップの販売力にもスタッフの力を借りながら売上アップを目指して行けたらいいですね。
――それは今後が楽しみですね。最後に、今後の展望について教えてください。
齊藤:ここまで来られたのも、すべては寺澤杜氏との運命的な出会いによるものです。お互いの利益が合致し、ウィンウィンの関係で成長し続けることができました。これをさらに伸ばし、寺澤が毎回語るような、清酒製造におけるコンパクト化を普及させ、スタッフの業務状況を整えつつ、よりマイクロブリュワリーでも良質な日本酒が造ることができることを知ってもらいたい。
若松屋は、不動産事業もあり、東京港醸造の今後の可能性も見据えて、会社としては有形資産より無形資産の価値を高めることが目的なんです。異業種への参入もチャレンジしていきたい。従業員と協力し合って、企業としても、堂々と誇れる会社に近づけていけたらいいと思っています。
――ありがとうございました。
株式会社若松 代表取締役
東京港醸造株式会社 取締役会長
齊藤俊一(さいとう・しゅんいち)
1812年創業の若松屋7代目。
1999年、地元商店街連合会の役員に就任。
祖業である造り酒屋の復活を志す。
2011年、酒蔵「東京港醸造」開設。
2016年に発売開始した
純米吟醸酒『江戸開城』は、
2017年度の東京国税局酒類鑑評会、
清酒純米燗酒部門で優秀賞を受賞。
第17回「勇気ある経営大賞」
(東京商工会議所)特別賞受賞。